HinotoYasuakiraの感じたままに

真の主権国家たれ。真の平和国家たれ。真の平等国家たれ。真の自給国家たれ。

原初的なセックスエネルギーだけが、 愛へ開花することが出来る。


osho
自然は律動的な調和だ。
ところが、人間が自然に押し付けた人工的なもの、
自然に反して工作したもの、生の流れの中に
人間が投げ込んだ機械発明は、多くの場所に
障害を生み出し、その流れを止めてしまった。

さもなければ、愛の川は自由に流れ、
神の海に行き着いていたに違いない。

愛は、生まれながらにして人間の内部にある。

もし障害が自覚を伴って取り除かれたら、
愛は流れることが出来る。
そうなれば、愛は神に触れるほどに、
至上の存在に触れるほどまでに高まることが出来る。

これら人工的な障害とは何だろう?
まず第1に、最も明らかな障害は、
セックスへの反対、情熱に対する非難だ。
この障害が、人間の中の愛の誕生の可能性を破壊して来た。
単純な事実は、セックスが愛の出発点だということだ。

セックスは愛に至る旅の始まりだ。
その起源、愛と言うガンジス河の源、
ガンゴトリは、セックス、情熱だ。

が、誰もがその敵であるかのように振る舞う。
あらゆる文明や宗教、あらゆるグル(導師)、
見者はこのガンゴトリ、この本源を攻撃して来た。
そして川は抑えられたままになっている。

私達は、旅をして愛の内なる海に行き着くのは、
最終的にはセックスエネルギー自体で
あることを理解しない。

愛は、セックスエネルギーの変容したものだ。

愛の開花は、セックスという種からやって来る。

セックスエネルギーだけが、愛へ開花することが出来る。
人間は、自分のエネルギーと闘うことを強いられて来た。
人間は自分のセックスエネルギーと闘うように、
セックスの衝動に反対するようにと教えられて来た。

セックスは人間の原初の地点だ。
彼はそこから生まれた。
神が創造の出発点として
セックスというエネルギーを創った。
そして人間は、神自身それを罪と見なさなかったものを
罪深いと言う!

もし神がセックスを罪と見なすのなら、
その時にはこの世界において、
この宇宙において、神ほどの罪人は他にいない。

あなたは、花が開いているその状態は
情熱の表現だということ、
それは性的な行為だということを
理解したことはないだろうか?

目にも鮮やかな美しさに満ちた孔雀のダンス、
詩人はそれを歌い、聖人もまた喜びに満ち溢れる。

だが彼らは、そのダンスもまた情熱の公然たる表現であり、
本来、性的な行為だということに気づいているだろうか?
誰を喜ばすために孔雀は踊るのだろう?

孔雀はその愛する者、その連れ合いを呼んでいる。
ヒバリが鳴いている、カッコウが鳴いている。

少年は青年になり、少女は女へと成長する。
この全ては何だろう?

何という遊び、何というリーラだろう?

これらは全て愛、性的なエネルギーの現れだ。

この愛の現れは変容されたセックスの表現だ。
それはエネルギーで溢れ、セックスを肯定している・・

人の全生涯を通じて、愛のあらゆる行為、

愛のあらゆる態度とその衝動は、

原初的なセックスエネルギーの開花としてある。